ここは草原です

草原ではいろんなひとがいろんなことをおしゃべりします

昨年から最近にかけて、自分の描いた絵を買ってもらうという出来事に恵まれている。特別な依頼でない限り、絵を特定の誰かに向けて描くことはいまのところないけども、その絵を気に入ってくれて大切に自分の生活のなかに飾ってくれるひとがいることが不思議です。絵は(もちろん絵以外のものもだけど)一生の相棒みたいなものになると思っている。気に入らなくなっても簡単に捨てられないと思うし。飾っていようが、その日の気分で押し入れにしまっていようが、誰かに譲ってしまおうが、ずっとその人のやり方でつき合っていくものになると思う。私自身はそういった勇気がまだ足りないのかわからないけど、誰かの作品を買うことがまだほとんどない。考えすぎかもしれない。個展が終わってから、気合いを入れて切り替えだ!と思っていてもずるずると体調を崩しまくっている。それまで割と元気だったにもかかわらず。でもその周辺に起こった素晴らしい時間との釣り合わせだったら仕方ない。体調もやっと少しずつ良くなってきて、ようやく今年も頑張ろうという気持ちになってきた。遅。ずるずる生きていきます。わたしも誰かのつくりだしたものに救われるように日々生きられています。ありがとうございます。感謝をたくさん言いたいひとにも、言いたいことがありすぎて逆になにも言えなくなったりしていて、すみません。わたしには、お米を磨いだ水がほんとに透明になるまで何度も水をすてるように、たくさんの時間が必要みたいです。そんな必要がなくても。そんな必要がないことも知っています。だから制作してスピードをあげていけたらと思います。今年もよろしくお願いいたします。わたしの絵をみて色がきれいだなあとか変な世界だな、とか一瞬でも生活のことを忘れちゃったりとか、また思い出したりとか、死ぬことも一瞬でも忘れちゃったりとかするひとがいたらいいな。もちろんそれ以外でも。たくさんのものに出会えますように。

最近は作業を進めたいが為に机にいろいろ書いてあるノートをずっと開きっぱなしにして「やれ」というメッセージを24時間発してもらっている。使えるかわからないラフが少しづつ進んでいるような錯覚あり。やらなければいけないことがある時ほど読書が面白いほど進むのは誰でもそうなのかもしれない。手を伸ばしやすい右手に暇なときはまったく手をつけなかった本たちがどんどん積み上がる。高い。これは大学生のときからこうなのでたぶん一生このままだと思う。この間、気になる本の在庫を調べてもらう為に本屋に電話して在庫があったので取り置きするか聞かれたのだけど実際読んでみて欲しくなかったら気まずいので断り、後日本屋まで向った。すこし立ち読みしてこれは買おうと思ってレジに行くと、会計のあとに「もしかしてお電話くださった方ですか」と声をかけられる。ばれてしまったら仕方がないのでしっかりお礼を言ってお店を出た。声と顔ってそんなにも近いものなのだろうか。わたしはと言えば店員さんと電話口の声が結びつかず、思わず動揺してしまったけど。でも声質と顔のつくりというよりは、しゃべり方の妙な間や音の動きと実際の動作や表情の動きが何かリンクしているのかもしれない。今まで経験してきたバイト先でほとんど動きが変と言われている。気をつけよう。

すっかり秋の空気!秋が一番すきだからとても嬉しい。本が部屋にどっさりだったから百円ショップの木材で本棚を新しくつくり収納した。(年々増えているけど結構十分これでいい)本がしゃんと並んでいるとやっぱり気持ちがいいものだなと整理してみると思う。自分で買ったのだから当たり前だけど、久しぶりに見ると!と思う本がたくさん発掘されて楽しい。でもまだまだ収納先が足りなかった。絵を書くスペースもこのままではきっと足りない。

世阿弥改作「松風」の対訳されているものを読む。この時期に読むのにぴったりでほんとうにずっと読んでいたいとずっと思いながら読んでいた。能は見たことがないし、それにまつわる文章も読んだことがなかったけどタイトルに惹かれて読んでみた。ひとつの想いや言葉をたよりに、松が想い人になり、風景が姉妹になり、ふたつの名前が生まれ、姉妹が風景になってすべてが夢のように消える。ほんとうに美しいものを読んだ。

自分の展示が見えそうで見えないかんじで少しづつ焦っている。見えているものはあるのだけど、その出し方がよくわからない。別に誰にも求められていないことを、焦りながら考えていることのすべてが滑稽でほんとうにどうでもいいような気がするけど、何かをつくって誰かの目に触れる場所に置くということをし続けようと思うことはなんなんだろう。誰かの為にという気持ちは全くないはずなのに。自分の為にという気持ちも全然ないと思う。これを書いていたら“為に”っていう言葉がすごく嫌なかんじがするような気がしてきた。このまま考え続ける。

最近、呼びかけるのにちょうど良い言葉をずっと考えている。

この間、松本秀文さんの詩にひょいと出会い“ほら”という呼びかけがすごく良いなあと思いながら何度も読んだ。書いたり声に出したりして何度も読んだ。“ねぇ”とか“おい”とか個人に近いようなものに向けた呼びかけはなくて、“ほら”は「ほうら、見たか」っていう一人事の息づかい・ある出来事に対する呼びかけのかんじもあるし、個人よりももっと大きな塊にむかって口火を切るようなかんじが何となくする。すこしおどろおどろしいかんじもするし、軽々しいかんじもする。“ほら”はすごく良いなあと思いながら今日も言葉が浮かばない。

ひとつの広さ

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(選評)

第一連にとても惹かれました。「それなら いっそう/距離をとって」が哀しくて納得します。この一連のスムーズな説得力に対して、最終連に()があるから、もたついているように感じた。冒頭は力まずに生まれたけど、最後の部分は考えて考えて書いたようなちぐはぐな印象を受けました。

 

ユリイカ2016年9月号 入選(三角みづ紀さん選)

 

アジュダ宮殿に行った。王朝、王族については全く詳しくないのだけど連れていかれるがままその華やかな屋敷をみてまわった。ブラガンサ王朝の最後の住まいだったらしいが、ほんものは1794年に火災で焼けてしまい現在の建物は19世紀初めに建設されたものらしい。全体はとにかく広いのだけど、一部屋一部屋はそこまででもなく生活空間くらいの広さのものを無限に繋げているかんじがしてふしぎだった。装飾が装飾と思えないくらいに設えられていて、絵画や壁一面に描けられた織物や彫刻がいろんな沈黙をしていた。これは再現されるときにもちろん誰かが変えたものかもしれないが、部屋の中で人の目線が自然に届かないような高い場所に、ぽつんと焼け野原になった場所を人や馬が歩いている絵画が掛けられていたり、食事をする部屋から廊下へ繋がる開口からとても大きな絵画(何かを収穫をする女たち、青々と育った植物と労働をするふくよかな女性が全く同じ存在として描かれているもの)がそのままそこにいるように掛けられていたりするのを見てわくわくした。絵の存在感が美術館とは全然違うと思った。それはわたしがここにかつて住んでいたであろう人たちに、少なからず何か自分とは違うものだという偏見があったからなのだろうか。それとも無意識にあこがれにちかいものがあるからなのだろうか全くわからないけど、もっと大きなもののなかに絵がおかれているような気がしてとてもうれしかった。日本語ガイドさんはここに住んでいた王女さまは淫乱で誰とでも関係をもったそうです、庭師なんかともだそうですと笑いながら言った。1階の中間くらいの場所に「冬の庭」と呼ばれるとても明るい外みたいな部屋があった。まんなかには噴水のような大理石の像がある。おおきな開口には鉄の細いフェンスが付けられ、ガラスでできた透き通った青や緑のぶどうが吊り下げられていた。それがつよい光に透かされてとてもきれいだった。その部屋にはおおきなお城の形をした鳥かごもあった。2018年のいま、そこに鳥はいない。水もない。そこでは誕生日パーティや夕食会をしたそう。部屋をあるいていくたびにいろんな顔がみえてくる。名前も顔も全然しらないひとたちの誕生日パーティ。その写真も絵もない。でも光はあって、ガラスのぶどうにすうっとあたっている。なにを見ているのだろう。

仕舞

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(選評)

『足もとで人々は舞う。はしごの先は見えないぐらい遠い。なんだか見えないし、高くて遠いとは。影が動くし、足下はちいさくなってゆく。旗はふるえ、舞の笛音がこちらに届かない。どういうシチュエーションを想像したらよいのか、死者たちがこちらを振り向くこともなく、かけてゆく。題名は「仕舞」。こういう題名から思いっきり作品を書ける。』

 

ユリイカ2015年8月号 入選(藤井貞和さん選)