ここは草原です

草原ではいろんなひとがいろんなことをおしゃべりします

すっかり秋の空気!秋が一番すきだからとても嬉しい。本が部屋にどっさりだったから百円ショップの木材で本棚を新しくつくり収納した。(年々増えているけど結構十分これでいい)本がしゃんと並んでいるとやっぱり気持ちがいいものだなと整理してみると思う。自分で買ったのだから当たり前だけど、久しぶりに見ると!と思う本がたくさん発掘されて楽しい。でもまだまだ収納先が足りなかった。絵を書くスペースもこのままではきっと足りない。

世阿弥改作「松風」の対訳されているものを読む。この時期に読むのにぴったりでほんとうにずっと読んでいたいとずっと思いながら読んでいた。能は見たことがないし、それにまつわる文章も読んだことがなかったけどタイトルに惹かれて読んでみた。ひとつの想いや言葉をたよりに、松が想い人になり、風景が姉妹になり、ふたつの名前が生まれ、姉妹が風景になってすべてが夢のように消える。ほんとうに美しいものを読んだ。

自分の展示が見えそうで見えないかんじで少しづつ焦っている。見えているものはあるのだけど、その出し方がよくわからない。別に誰にも求められていないことを、焦りながら考えていることのすべてが滑稽でほんとうにどうでもいいような気がするけど、何かをつくって誰かの目に触れる場所に置くということをし続けようと思うことはなんなんだろう。誰かの為にという気持ちは全くないはずなのに。自分の為にという気持ちも全然ないと思う。これを書いていたら“為に”っていう言葉がすごく嫌なかんじがするような気がしてきた。このまま考え続ける。

最近、呼びかけるのにちょうど良い言葉をずっと考えている。

この間、松本秀文さんの詩にひょいと出会い“ほら”という呼びかけがすごく良いなあと思いながら何度も読んだ。書いたり声に出したりして何度も読んだ。“ねぇ”とか“おい”とか個人に近いようなものに向けた呼びかけはなくて、“ほら”は「ほうら、見たか」っていう一人事の息づかい・ある出来事に対する呼びかけのかんじもあるし、個人よりももっと大きな塊にむかって口火を切るようなかんじが何となくする。すこしおどろおどろしいかんじもするし、軽々しいかんじもする。“ほら”はすごく良いなあと思いながら今日も言葉が浮かばない。