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そのときは確信をもって成立する、と思ったことが
いま見てみるととてもおかしいような気がして
意味がわからず成立しないような気がして
なんだか低いレベルでの考えごと、スケッチのような気がして
気がしてしまうことがある。
そのときの自分といま現在の自分のどちらを信じるか。
確かに覚えている手応えのある、
でも現在の自分からは理解できないものを信じるか
現在の自分の判断・反応を信じるか。
普通は時間が経ってみて見たときに良くないものは良くないと言われ
そういう時間にさらすようなことが大切だのどうだのと言われ
実際にいままでの自分もわりとそういう実感を持っていたからそう思っていたけど
そうやってある意味正常とされる感覚(で)(から)ふりわけをしていると
結局残るものは社会的なものでしかないような気がしてきた。
客観的に、客観的に、と言われる程に
自分で消していったものを考える。
とわいえ、自分の考えや作品を自分と切り離しているひとの方が信頼できるから
そういうものに作用している客観性とはまた違うんだと思う。
どのときの自分(で)(から)ふりわけをするのか。
もちろん〝自分〟は全然強調しなくていい。
(自分のことを自分としか呼べないから仕方ない。)
実際には例えば労働に行く前と後では、ものの見え方が全然違っていたりして
複層的なものをそのままにみるような作業が難しくなったりする。
消えることは、消えてしまったと儚く言えるようなものではなく
なにか力強い意志のような力のようなもので確かに消されていると思う。
消えてしまった、というほどもろい物なんてない。