ここは草原です

草原ではいろんなひとがいろんなことをおしゃべりします

そのときは確信をもって成立する、と思ったことが

いま見てみるととてもおかしいような気がして

意味がわからず成立しないような気がして

なんだか低いレベルでの考えごと、スケッチのような気がして

気がしてしまうことがある。

そのときの自分といま現在の自分のどちらを信じるか。

確かに覚えている手応えのある、

でも現在の自分からは理解できないものを信じるか

現在の自分の判断・反応を信じるか。

普通は時間が経ってみて見たときに良くないものは良くないと言われ

そういう時間にさらすようなことが大切だのどうだのと言われ

実際にいままでの自分もわりとそういう実感を持っていたからそう思っていたけど

そうやってある意味正常とされる感覚(で)(から)ふりわけをしていると

結局残るものは社会的なものでしかないような気がしてきた。

客観的に、客観的に、と言われる程に

自分で消していったものを考える。

とわいえ、自分の考えや作品を自分と切り離しているひとの方が信頼できるから

そういうものに作用している客観性とはまた違うんだと思う。

どのときの自分(で)(から)ふりわけをするのか。

もちろん〝自分〟は全然強調しなくていい。

(自分のことを自分としか呼べないから仕方ない。)

実際には例えば労働に行く前と後では、ものの見え方が全然違っていたりして

複層的なものをそのままにみるような作業が難しくなったりする。

消えることは、消えてしまったと儚く言えるようなものではなく

なにか力強い意志のような力のようなもので確かに消されていると思う。

消えてしまった、というほどもろい物なんてない。

 

いつも帰り道(夜)に横を通る駐車場がある。そこは5本くらい街路灯が立っているのだけど、そのすべての蛍光灯が消えている。正確に言えばあとわすがだけ微力が残っているかんじの、両端だけオレンジ色に光っている状態でここ何年かずっと光続けている。真っ暗な駐車場に車たちはびっしりで息をひそめて黙っている。静か。私はなぜかその風景が好きで、その風景をみると詩を想う。詩と向かい合うような距離感でその風景を眺めて、詩を何度も朗読するように毎日毎日その風景を眺めている。そして毎日毎日飽きることなく新鮮にいい風景だなあと思っている。

ここに何を置くことが必要か、

と考えるとき

その何倍もの見えない時間をかけて

日々のなか

これはこれにどんな効果を与えているんだろう

意外と反しているようなこれとこれは相性がいいな

これとこれは名前や属性は違うけど方向が同じだな

ということを観察していないと考えていけない。

きっとどんなことでも。

静かに見つめていった先に

やっと言葉はでてくるもので

反応は感想ではない。

名付けられてないものが山ほどあって

語られていないことは海ほどある。

海は恐ろしい。

今日も絵を描く

 

 

ya-gins vol.34荻原林太郎個展『flag』での一日パフォーマンス

「こんなふうにしている」レポート

 

 

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(空間)
展示空間の入口はガラスの引戸
商店街に面している為行き交う人が間近に見える(向こうからもよく見える)
床はコンクリート
天井はななめで木の大きな梁がある
壁は白い
展示作品はそのなかのいろんな場所に置かれ、集まり、映されている
大きな梁と壁に天井まであるステンレスの丸棒が立てかけられ、一本からはロープが垂れ下がっている

(人間)
展示空間の中で向かいあったような状態
ひとりは立っていて
ひとりは座っている
見に来たひとはどこにいてもいい

(実験)
・ひとりが電車から見えるものを記述した風景を読あげ、見てないもうひとりが追いかけるように読む(淡々と)
・ひとりが電車から見えるものを記述した風景を読あげ、見てないもうひとりが関係のない言葉を同じリズムで声にする(この日は主に戯曲から)
・展示作品を制作中の作者の日記を作者ではない人が読み、その展示作品を使って作者がいろんな音を鳴らす
・歩きながら見えたもののメモを読み、ループさせ、それに重ねて読む
・メモや日記のような発するものが特定される文書を、紙に書きながら読む(発音は一音ずつ独立させるように)

(時間)
一定の時間で項目のようなこと、ひとつを行う

そのあとの一時間はそこでの音を録音したものを流したままにする
音を流すときは展示空間に本人たちはいなくなる

ザックリとこんなようなことを行った。以下勝手な実感より。


・ひとりが電車から見えるものを記述した風景を読あげ、見てないもうひとりが関係のない言葉を同じリズムで声にする(この日は主に戯曲から)
→わたしは見てないもうひとりをやった。そこから、会話するように、音に反応するように戯曲の中の言葉を読んでいった。戯曲の会話文は単純に一文が短くちょうど良かったから使用した。短ければどんな文書でも文体でも良かったのかも。(その辺を次はもっと探るべきだと思う。)

見ているひとがいるときと、いないときでは当たり前だがやることが全然変わるということがわかった。はじめてやってみるということはそう言う当たり前のことを当たり前に実感することであるのでこれが特になんだというわけではない。やっていると〝人間が見ている〟ということが、そのひとを見てわかるわけではなく、気配が浮いているようにわかる。意識が浮いているようにわかる。すると段々に、なぜかそのひとに話しかけるように言葉を発したくなる。こちらは目をみるわけでも、自分の気持ちを声にするわけでもなく、あくまで戯曲の中の言葉でそれを行った。普段のように使う言葉とその意志を自分で選択することにならない声。でも現在息をする意志のある声になったような気がした。入れ物と中身。もっと声や存在に反応するように発することが少なくなる方が作品としては面白いのかもしれないけど。パフォーマンスだったらそれでいいのかな?

 

言葉を書くということは少し遅くなるということで、考えることを一瞬止めなければならない。声にすることはそれが長くなるかんじ。日々いろんなものを見ながら動いている。目にしながら、認識したということすらも無意識に、思い出そうとするとき、記述しようとするとき、頭のなかではひとつひとつの名称が浮かんだりする。だれかの見た風景の名称を読んでいるとき、録音されたものを聞いているとき、ひたすらに思い出すように読んでいた。名称になればそれを知っているということになるからか?みんなで共有できないことはそもそも名称にならないから?自分に思い出せるようなことがないことであっても、人は思い出すということができるのかもしれないと思ったけど。そのことを〝なつかしいかんじ〟ってもしかしたら形容しているのかもしれないけど。これをもっと、聞いた人みんなが感じるようなことになれば現在が持ってる現象にできる気もするけど、やることはこんなにシンプルじゃ駄目なのかも。あとはひとりだけが書いたものというのがいけないのか。あとは書かれたものと声にして読むことの大きな隔たりをどうするか。聞かせる相手がいないときになぜ声にするのかについても考えたほうがいいかも。

 

普通に見えることのなかで動いていくこと。もっと見る人のことを考えること。

みる人は絶対にわたしたちではないから。

液晶画面を見すぎて目がいたくなるころに詩集はぴったりだ 詩の海は何より生きものの声がする 人間だから人間らしくよりよい人間になるために日々の活力のためにも前向きに人間に馴染もうとする作業に疲れたころに詩集はぴったりだ 詩のうたは何より死にゆく声がする doudemoiikedo自分の言葉がひとつもない いつになったら言葉は (国語)