ここは草原です

草原ではいろんなひとがいろんなことをおしゃべりします

火曜日

歩道で小さい兄弟がふたり、母親に抱きついている。

お兄ちゃんの方が抱っこされないまま地面に足をつけて、自分も抱き上げてほしいとだだをこねている。ふたりは無理よ、ふたりともおりて一緒に手を繋いで歩こうと母親が声をかける。はじける笑顔。

ひとりで持てないものはどちらかを選ぶ必要はなく、どちらも手放して一緒に歩けばいいのだということがなんとなくじんわり残る。東京は台風が近づいているせいか涼しい。

 

午後になると障害のある子供たちが駅周辺をよく歩いているのを見かける。側には大抵、学校の職員らしき成人男性もしくは母親、兄弟らしきひとが手をとっていることが多い。なんの軽蔑も差別の意識もなく自然に目をむけてしまう。付き添い人はいつもたくましく、本人はさらにたくましいように見える。ただ彼らが一緒にたくましく歩いていることが、とても心強いと思うけれど、きっと違う立場の自分から湧き出る感情のすべては(それが善もしくは悪どちらに判断されるようなことであっても)きっと差別ということに分類されてしまうのだろう。相模原の障害者施設殺傷事件のことがいつもぼんやりよぎる。収束していかない感情たちが事件と呼ばれ続ける。

 

帰り道、コンタクトがもう古いようで痛かったのでレンタルビデオ屋さんでエアーではずす。視界がいきなりぼんやりしてDVDを探すのに一苦労ししまったと思う。昨日までの猛暑が嘘みたいで肌寒い夜道。いまが何月なのかすぐに忘れてしまう。いつも通る団地の側の桜の木の通りで、街灯のまわりに緑がまるく浮かんで見えるのをみて歩く。その部分をみていると夜はほんとうに素晴らしいというような気持ちになるし、心から美しいと思う。(その視界のことを昔の自分は“死んだものの目のようだ”とメモにかいているのをみつける。)視界がいつもよりもぼんやりしているせいで、さらに夢ごこちでいつもと違う視界で物事をみることもほんとうに必要だという気持ちになる。詩をもっとかきたいという欲がやっとこさでてきたけれど、かきたいと思うととたんに書くという行為の方が強く意識されてしまい無意識に緊張して全然上手くゆかないような気がする。かきたい、形にしたいと思う気持ちがとても邪魔です。ほんとうは形にしなくたって、一緒にお茶を飲みながらなんでもない会話のなかで同じような驚きや豊かさを相手に与えることができるならば形なんて芸術なんていらないんじゃないでしょうか。そしてそこから何を理解した、共感したということだけでは絶対になくて、そのひとの気分がどう変わったとか、それから仕事を変えたとか、やっぱり変えなかったとか、パンをご飯にしてみたとか、無農薬とかジャンクとか、そんな些細なことに影響したり、わかりやすい選択に影響しなくたってぼんやり一緒にその時間がいてくれたりするようなそんなものがわたしは好きだ。

かくこと、でもきっとそれ以上に毎日をきちんと積み重ねることが何よりも重要だと思います。形にしたいと思ってしまうひとは(もちろん私自身も)そんな空気を生活に自然と持たせることが苦手なんだと思います。